身近な「時間と心のゆとり」アドバイザーのあつやです。自分自身が時間をうまく活用できなくて困ったり、あがり症・人見知り・引っ込み思案で悩んだりゆとりがなかった経験から、専門の心理学や時間学の知識を活かして、ブログやHP・SNSなどで解決策を共有したり、本や小冊子で伝えています。
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今、ここ、自分(自分⇔環境)
「今、ここ、自分」(環境を受け入れている)
時間、空間、感じる主体、五感をあるがまま受け入れる、どうしようもないこと、変えることができないことを受け入れることが大切です。
イメージしてみてください。
「今、ここ、自分」は「今そこに咲いている花」のこと、「等身大」とは「あるがまま、ただそこに咲いている花、それ以外の何ものでもない」ということ、「自分が主役」とは「太陽のスポットライトを浴びて誰のためにでもなく一生懸命咲いていること」です。
今の自分をあるがままに受け止めて、まわりの環境もすべて受け入れて、「置かれた場所でひたむきに咲いている花のように生きる」ことができれば、自分の境遇や今の状況が「ちっぽけで」何てことないように感じることができ、余分なストレスを感じないで生きられるようになります。
つまり、時間、空間、主体である自分にフォーカスし、それらを受け入れることが、心の健康にとってたいへん重要なことだということを受け止めて生きていきましょう。
自分を許す、認める、(自分←自分)
見たくない自分も見る
「見たくない自分を見る」とは、自分の弱さ、愚かさ、醜さ、狡さ、残酷さなどを見ることです。
誰でも、思い出したくない過去、つらかったできごと、他人にしてしまった酷いこと、恥ずかしくなるようなこと、などの体験があります。
時が経つと「弱かった」「甘かった」「まずかった」と大雑把に思うのですが、「そんな自分がいた」ということをしっかりと認めることがとても大事です。
単に過去の自分を否定するのではなく、自分の嫌な部分に向き合うことで、「人間はいいところだけではなく、弱さ、愚かさ、醜さ、狡さ、残酷さなどを持っていていい、そうやって生きているのだ」と受け入れることが大切です。
なぜなら、誰しもがそういう部分をもっているからです。
すべてのものには表と裏、光と影がある
すべての物事には、コインの裏表のように、プラスもあればマイナス部分も存在します。それは人間についても同じです。
自分自身のなかにも表があれば裏があるように、ダメな自分、できない自分もいれば、素晴らしい自分、できる自分も存在していて、すべてを含めて自分という人間を構成する要素になっているのです。
でも、弱い自分、悪い自分、嫌いな自分、認めたくない自分、などのネガティブな部分についてはどうしても排除したくなります。
他人からは、ポジティブで前向きな姿勢や言動、行動が評価されることが多いので、ネガティブな部分はなるべく隠してポジティブにならなければとつい頑張ってしまう人も多いかもしれません。
しかし、「マイナスを消すからプラスが出てくる」というものではなく、どちらかだけを消すということは、そもそもできないのです。
ものごとにはすべて表と裏、光と影があり、表裏一体である、マイナスもあればプラスもあるのが自然であたり前、という自然の摂理をまず受け入れることが大切です。
ダメな自分、できない自分を受け入れても大丈夫
ダメな自分やできない自分を受け入れてしまったら、そこで自分はダメになる、できなくなると思いがちです。
ダメな自分やできない自分を受け入れる事は、弱くなることではなく、むしろこれまでのすべての自分をまとめて受け止めている、スケールが大きくなっている、あらゆる経験をしている、という安心感につながっていくのです。
完璧さを求めず柔軟に考える
完璧主義でいると、ほんの小さな失敗でも自分にとっての大きなダメージと捉えてしまってくよくよしてしまいます。
そしてさらに、慎重に、臆病になるため、前にも増してやるべきことが進まず、なかなかゴールにたどりつきません。
完璧さを求めなければ、追いつめられた心が楽になり、自分の中の無力感、罪悪感などから解放されます。そして、他人に対しても完璧を求めないようになり、柔軟性がついてきます。
本当の自分と弱い心(自分⇔自分)(我がまま、あるがまま)
- 自分と向き合う、打ち勝たなくていい 等身大 -
「わがまま」「我がまま」「あるがまま」
「わがまま」とはもともとは「我がまま」と表し、「あるがまま」という意味なのだそうです。決して「自分勝手」ということではなく、自分の考え、心の思うところに素直に従い行動するという良い意味なのです。
私は、小さい時から気が弱く、自分の思ったことを何一つ言えない子どもでした。ある時「わがまま」ということについて「うらやましく」感じたことがありました。「わがまま」になりたい、と強く思いました。
でも、無理でした。それから本当に苦労をし、自分の心が疲れないようにどうするかを真剣に考え、大学では心理学を専攻するようになったほどです。それほど私にとってたいへんなことだったのです。「ふつうに」過ごしてきたまわりの人たちには決してわからない心もちなのです。
この本を読んでくださっている方で、私の苦しみに共感していただける方がいらっしゃれば、この本を書いた意味があると思います。
自分の「弱い心に打ち勝つ」のではなく、「弱い心と向きあう」こと
私もそうですが、人は弱いものだと思います。
まわりの人たちは「がんばって」「大丈夫だから」「なんとかなるから」「きっとうまくいく」などと半ば無責任な言葉をかけ、それに打ち勝つよう励ましてくれますが、私は「もうこれ以上何をがんばれって言うんだ」「全然大丈夫じゃないよ」「なんともならないよ」「うまくいくわけないだろう」といつも思っていました。
必ずしもいつも「弱い心に打ち勝つ」必要はないと思います。ただ、その「弱い心」と正面から向き合って、そのまま受け止めるだけでいいのだと思います。「今、自分はこうなんだな」「こう感じているんだな」とだだ思うだけでいいのです。そして自分と向き合う時間が大切です。
私は自分の弱い心と向きあいながらいろいろなことを考えました。その中でいくつか気づいたことがあります。
自分の弱さを認める
誰もが「自分は弱い」と感じています。
その「弱い」部分を自分で認めることができると「強さ」にもつながります。
本当に強い人は、「自分の弱さ」を認める素直さをもっています。無理に背伸びをして「強いふり」をするのではなく、素直に弱い自分をさらけ出すことが、本当の強さにつながるのです。まずは自分の弱さごと素直に認めることからはじめてみましょう。
「自分が使う言葉」と「心もち」が大切
「自分が使う言葉」と「心もち」はとても大切です。
最終的にどういう言葉を発するか、アウトプットするかは自分自身で決めて話しています。それが行動となり、生き方につながります。まわりの人たちとの関係もそれにより大きく変わります。
その前提として、外からの刺激、状況、環境に対してどう認知したか、つまり、自分がどう感じ、どう解釈し、どう納得するかにより自分の中で思考の熟成プロセスが違ってきます。平たく言えば、自分がどう感じ、どう思ったかによって出てくる言葉や行動が変わるので、いつも一つ一つていねいな気を配っていきましょう、ということです。結局ありのままの自分をいつでもありのままに表現していけばよいのです。
見栄をはらずにありのまま、あるがままの自分を出す
自分の間違いや自分の不利な状況を隠したり、見栄をはることなく、いつでもどこでもありのまま、あるがままの自分を表現するようにしましょう。
相手に過小評価されてしまうということへの恐れを感じることなく、自分ができなかったことも素直に認めるようにしましょう。
そうすることにより、「自分はそれ以上でも、それ以下でもない」という意識になり、不安や焦りなども自然と薄れていきます。そして実力も発揮でき、結果もついてくるようになります。
「嫌なものは嫌」自分の心と向き合う
「嫌」という気持ちはとてもやっかいです。
「快-不快」という根源的で最も強い力を持つ感情の一つで、世の中に適応するために無意識の沼の奥底に沈めて押し隠しているものなので、自分ではコントロールすることができません。
そしてこの「嫌」という感情は、「生理的に不快である」ことのほかに、「したくない」、「されたくない」、「させられたくない」、「言いたくない」、「言われたくない」「言わされたくない」など、他人との関係性の中で生じる状況でも湧いてくるのです。
この「嫌」という感情にうまく対処できれば、人生を楽に生きることができますが、まず自分の「嫌だと感じているんだな」という状況を素直に受け止め、「これが嫌なんだ」と嫌なコトやモノ、人などの対象を単純に認識し、「嫌なことは嫌」とはっきり主張しましょう。
「等身大」(あるがまま)本当の自分 背伸びをしない
- かっこ悪くていい、ダメでもいい、できなくてもいい -
いつでも自分らしく自由に生きる…
自分らしい生き方…とは
誰でも「自分らしく生きたい」と願っています。
でも、なかなかそれができる人はいません。
なぜでしょうか。
それは、人に対して、あるいは人の目に対して「背のびをするから」です。
「自らハードルをあげたり」「人の目を気にしたり」…。
「かっこ悪くていいじゃん」「人からどう見られたっていいじゃん」「ダメでもいいじゃん」「できなくてもいいじゃん」と思えた時、つまり等身大の自分を受け入れられた時にはじめて「自分らしく」生きられるのです。
そしてそれが、まわりから見て「かっこ良く」見えるのです。
人は「自分らしく、自由に生きている人」やその姿に「かっこ良さ」を感じます。
心を亡くすと書いて「忙しい」、亡くした心と書いて「忘れもの」
実は、私は子どもの頃から心があまり強くなく、それを克服しようと思って学生時代に心理学を専攻したこともあり、「心」のことについていつも悩み、苦しみ、考え続けてきました。
ですから、自分自身も周りの親しい人たちにも「心が疲れる」ことがないように、一生懸命考えたこと、がんばって経験したことなどをお話しています。
その中でも、「心を亡くすと書いて『忙しい』、亡くした心と書いて『忘れもの』」の話をお伝えしています。
まわりの環境、つまりヒト、モノ、コトなどにより振りまわされると「忙しい」と感じます。そしてそれがひどくなると「忙殺」される、つまり「忙しさに心が殺される」ことになります。
人はそんなに強くないので、すぐ「忙しい」と感じ、「嫌だな」「面倒くさいな」「やりたくないな」などと思ってしまいます。
それはそれでいいのです。そう思った自分を責めないでください。だってそれが「あたりまえ」なのですから。
ただ、そのことによって、人にあたったり、意地悪したり、言葉遣いが乱暴になったり、やることが雑になるのはよくありません。
また、自分の心を病んでしまうようなダメージを受けるのもよくありません。
では、どうすればよいのでしょうか。
私は、「ヒト」、「モノ」、「コト」とうまくつき合うこと、「学び」と「時間」を味方につけること、「自分の心」を守ることを考えて対処してきました。結局それが自分の人生を創っていくことになり、今この本を書くことにつながったのだと思います。
やはり、「心」が「亡くなって」はいけません。「心」を大切にしましょう。
バッファー
- タスクもアポイントもダンドリも -
バッファーをつくること「遊び、スキマ、ゆとりこそうまくいく秘訣」
人間の心は不思議なもので、ゆとりを持つことによってものごとがうまくいくようになります。
自動車のハンドルは「遊び」があるからうまく運転ができます。レールや建具はスキマがあるからこそスムーズに動きます。物事も人の心や時間にゆとりがあるからこそうまく進みます。
言い換えれば「バッファー」つまり緩衝材・クッションがあって物事がうまく進むのだと思います。
「コト」を取り扱うときの極意はこの「バッファー」「遊び、スキマ、ゆとり」なのではないでしょうか。
心にゆとりを持って進めることによって、頭(脳)の処理能力、処理策度が安定的に保たれ、あせりやパニックがなくなることによって、処理に対する邪魔が入らなくなります。
これだけでも格段に作業効率が上がり、パフォーマンスの向上が期待されます。
また、別の意味のバッファーとして、「一時保管」「とりあえずの置き場所」が大切です。両手がふさがっている時でも、そこに一時保管する置き場所があれば、落ち着いて作業を続けられるのです。